虎(牛)龍未酉2.1

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思考ログ|儵忽庵、荘子 応帝王篇「渾沌、七竅に死す」より

はじめに(コメント)

京都の西のほう、桂離宮のそばの民家2階に茶室がある。 名前を儵忽庵(しゅっこつあん)という。

その由来を、忘れないうちに記す。

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荘子 応帝王篇「渾沌、七竅に死す」

儵(しゅ)の字形は、修の「彡」を「黑(黒のもとの字)」に置き換えたもの。 「たちまち」とか「ほんのわずかの時間のうちに」を意味する。

忽(こつ)は、粗忽者の忽で、「たちまち」「いつのまにか」「うっかりしている間に」という意味。忽=心+勿で、「勿れ(なかれ)」は「なし」の命令形。心がそこに存在せず、はっきりしないまま見過ごしていることを指す。

儵と忽、いずれも「短い時間」を指すが、これが組み合わさって儵忽(しゅっこつ)という熟語になる。辞書をひくと「時間の短いさま、すみやか、たちまち、にわか、急」などとある。「なんで2回言うねん」とツッコミたくなるが、とにかく昔からそう言う。

儵忽庵の名前は中国の古典『荘子』。荘子のクライマックス「応帝王篇」の最後の説話「渾沌、七竅に死す」に由来する。この説話は、最後の章である応帝王篇の結論であり、さらには荘子全体の結論であるとも言われる。

「渾沌、七竅に死す」がどういうエピソードかは、下記リンクにゆだねる。

荘子『渾沌』書き下し文・現代語訳(口語訳)と解説

なお、渾沌(こんとん)は混沌と同じで、七竅は「7つの穴」の意味。ざっくりあらすじを書くと

「南海の帝『儵』と、北海の帝『忽』が、世界の中央の帝『渾沌』のもてなしを受け、お礼をしたいと思って7つの穴を開けたら、渾沌を死なせてしまった。

というもの。

カズム・大きな淵・天地開闢・混沌

混沌とは、世界がはじまりの状態(はじまる前の状態)のことである。いろいろな神話をみると複数の神話で「世界のはじまりには、まず混沌があった」と記されている。

ギリシア神話では

カズム

と呼ばれ、北欧神話では

ただ、大きな淵だけがあった

とあり、日本神話では

天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき

記され、中国神話の天地開闢では

混沌

と呼ばれる。

なにもない混沌から、様々なものが分かれ出て、世界が創造され、いっぽうで混沌は失われていく……。「渾沌、七竅に死す」は、世界創造の瞬間を語っているとおもわれる。

荘子といえば、よく知られるのは「胡蝶の夢」。

夢の世界で蝶になって舞っていた。夢から覚めた今が現実なのか?夢の世界で蝶になっていたのが現実か?

という問いかけであった。そしてもちろん、荘子的には「夢のほうがむしろ現実でしょう」、あるいは少なくとも「いま現実だと思っているのは、本当の現実じゃないかもね」といいたいはずである。

胡蝶の夢から類推すると、荘子は「渾沌、七竅に死す」で「混沌こそが世界の本来の姿、そもそもの姿である」と言いたがっているように思われる。「7つの穴が開く前の、渾沌がまだ中央の帝であったころを思い出せ」と。

行きつ戻りつ

この茶室に空いている穴は、6つであり、また同時に7つである。穴が6つの状態と、7つの状態が共存している。

つまり、混沌がまだあったときと、混沌がなくなったときを、行き来できる空間なのだ。世界が創造される前と、世界が創造されたあとを、両方体験できる場所なのだ。

この茶室で茶会がひらかれ、扉をくぐると、異なる世界にトリップできる。

この世のものではないかのような体験ができるのは、世界創造の瞬間に立ち会い、混沌ありしときに戻り、混沌が失われたときに戻ることができるからである。

茶室を儵忽庵と呼ぶ所以である。