頭が広がる感じと疲れる感じ
Obsidianを使い始めてまあまあ経つ。ノートが増えるたび、自分の頭の中がそのまま外に(未来に向かって自然に)広がっていくような感覚がある。一方でChatGPTに長い文章を書いてもらったあと、妙な疲労感というか、「自分で書いた感じがしない」ということがある。わりとChatGPTと密に意見交換したとしても、である。同じ「AIやツールに手伝ってもらう」行為なのに、なぜこの差が出るのか。ずっと気になっていたので、少し調べてみた。
そもそも「拡張された」という体感は史実なのか
スティーブ・ジョブズの「コンピュータは知性の自転車(bicycle for the mind)」という話は有名だ。では実際にMacintoshを使った人たちは、当時本当に「知性が拡張された」と感じていたのか。1984年の雑誌レビュー(Byte誌、New York Times、Los Angeles Times等)を当たってみると、意外なことに「拡張」という言葉そのものを使った一次証言は見当たらなかった。褒め言葉はマウス操作の直感性や画面の新しさに集中していて、「知性が広がった」という認知的な表現ではない。
ただ、これは「体感がなかった」ことの証明にはならない。レビュアーは短期間しか製品を使わない立場で、そもそも長期的な拡張感を語る動機が薄い。そこで別の角度から見てみることにした——言葉ではなく、行動の量だ。
言葉より行動が語ること
Macintosh登場後、それまで専門家にしかできなかった創作行為が一般ユーザーの手に渡る、という現象が立て続けに起きている。
デスクトップパブリッシング(DTP) : 1985年にApple LaserWriterとAldus PageMakerが揃い、組版・印刷を個人でできるようになった。パーソナルコンピュータ産業全体の市場規模は1976年の3億ドルから1990年予測で40億ドル規模へ膨らんだとされ、DTPはその主要因の一つとされている(この数字は業界史サイトの集約値で、一次統計そのものではない点は留保しておく)。
HyperCard : 1987年にAppleが無償配布した、非プログラマーでも「カード」同士をリンクさせて対話的なソフトを作れる環境。数年で数十万本の作品(スタック)がフロッピーディスクやパソコン通信を通じて流通したという。著述家スティーブン・ジョンソン氏は大学生の頃、これで学習用のツールを作ることに没頭しすぎて「本業の勉強をしなくなった」と自身のニュースレターで振り返っている。後にゲーム『Myst』もHyperCardスタックとして生まれたものだ。
行動の量そのものは「爆発」と呼べる規模で確認できた。ただし、これを「拡張の体感があったからだ」と即断するのは早い。値段が下がった、専門知識がいらなくなった、単に物珍しかった——という説明も同じくらい成り立つ。行動が増えた理由から「体感」だけを取り出す方法は、今回調べた範囲では見つからなかった。それでも、HyperCardの開発者ビル・アトキンソン氏自身が「意識拡張的な体験に着想を得た」と繰り返し語っていたという話(孫引きの域を出ないが)を含めて考えると、少なくとも一部の当事者にとっては「拡張」が実感を伴う物語として共有されていた、とは言えそうだ。
現代のツールでは、体感が真っ二つに割れている
ここが一番おもしろいところだった。
ObsidianやRoam Researchのユーザーコミュニティでは「セカンドブレイン(自分の記憶や思考を外に出して育てる仕組み)」という言葉が定着していて、「自分の脳が外側にあるように感じる」という一人称の体感がわりと普通に語られている。2025年の学術研究でも、パーソナルナレッジベースの利用は「単なる情報整理を超えて認知能力そのものを拡張する」場合があると報告されている(同時に「損なう場合もある」という両論併記だが)。
ところがLLM(ChatGPTのような生成AI)になると話が変わる。MITメディアラボが2025年に発表した研究(Kosmyna et al.、査読前の論文)では、54人の被験者をLLM使用群・検索エンジン使用群・道具なし群に分けてエッセイを書かせ、脳波を測定した。LLM群は脳内の接続性が3群中もっとも弱く、「自分の書いた文章」への所有感の自己申告も一番低かった。自分が書いたはずの文章から正しく引用することもできなかったという。研究チームはこれを「認知的負債(cognitive debt)」と呼んでいる。
査読前の研究なので、これだけで結論を出すのは早すぎる。実際、研究チーム自身が「脳が腐る」といった煽った報道のされ方を戒めている。ただ、Obsidian的なツールでは拡張の言説がわりと素直に語られ、LLMでは真逆の実証データが出ている、という対比自体はかなりくっきりしている。
何が違うのか——「自分で動かしている感じ」の有無
この差を説明できそうな理論があった。HCI(人とコンピュータのやりとりを研究する分野)の「Direct Manipulation(直接操作)」という考え方だ。1980年代に提唱されたこの理論では、「対象を自分が直接動かしている」という一人称の感覚こそが、良いインターフェースの本質だとされる。マウスでアイコンを掴んで動かす、ウィンドウをドラッグする——Macintoshの操作はまさにこれだった。
対してLLMは「対話相手に代行してもらう」構造だ。指示を出し、結果を受け取る。自分の手を動かして何かを起こしている感覚が、構造的に生まれにくい。意見交換をどれだけ密にしても、最後に文章を書く手を動かしているのが相手である限り、代行は代行のままだ。MIT研究が観察した「所有感の低下」は、この違いと筋が通っている。
直接操作と代行の構造
ただしこれは理論的な整理であって、「だからLLMは拡張感を生まない」と実証的に確かめられたわけではない。あくまで説明として筋が良さそうだ、という段階の話だと思っておいた方がいい。
結局、何がわかって何がわからなかったか
わかったこと:
- 「知性を拡張する」という理念そのものは、今も廃れていない。むしろ担い手は現存している。
- ただし「体感として届くか」は、道具の作り方次第でくっきり分かれる。自分で直接動かしている感覚を残す設計(Obsidianのようなツール)では拡張の言説が語られ、代行させる設計(LLMとの対話)では逆方向のデータが出ている。
わからなかったこと・慎重に扱うべきこと:
- 行動の量が増えたことと、拡張を「感じていた」ことの因果関係は、今回調べた範囲では切り分けられなかった。
- MITの研究は査読前で、被験者も54人と多くない。単一の研究として、割り引いて読む必要がある。
- 「Direct Manipulationだから拡張感がある」という説明は理論としては筋が通るが、それ自体を検証した実験は見当たらなかった。
自分がObsidianに感じる「頭が広がる感じ」と、ChatGPTに感じる「なんか疲れる感じ」は、思いつきの感想ではなく、それなりに理由のある差らしい、ということが今回の一番の収穫だった。