【12B026】呪いの時代(内田樹)★★★

pp16 「壊す」ことも「創造する」ことも今ある現実を変えるという点ではよく似ている。「Change」という掛け声で興奮している人は、ものを壊しているのか作り出しているのかにあまり興味を示さない。長く生きていてわかったことのひとつは、現実を変えようと叫んでいるときに、ものを壊しているのか作り出しているのかを吟味する習慣をもたない人はほとんどの場合「壊す」ことしかしない、ということ

pp17 呪いは破壊することを意味する。何かを創りだすための呪いはない。なぜ破壊が優先的に選択されるかというと、創りだすより破壊のほうが簡単だから。変化の絶対値だけをとれば、破壊のほうが創造よりもはるかに大規模で印象的な出力をもたらす。

pp18 ですから身の丈に合わない自尊感情をもち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は創造的な仕事を嫌いそれよりは何かを破壊する生き方を選択する。「〜を叩き潰せ」「〜を打倒せよ」「〜を一掃せよ」というのはそういう人達が選好する言葉遣い。破壊する者の側に回れば、自分よりも遥かに社会的に実力がある、上位の人間と対等の立場に立つことが、場合によってはそれより上位に立つことさえ可能だからです。

pp21 もともと学校教育の機能の一つは、子どもたちの無根拠に高い自己評価を、適切に下方修正し身の丈に合った生活設計やキャリアに軟着陸させることにありました。「身の程を知れ」ということです。

pp72 相手が次に打ってくる一手に最適対応すべく全神経を集中させること、それを武道では「居着き」と言います。物理的には足の裏が地面に張りついて身動きならない状態ですが、居着くとは構造的に負けることです。居着いた相手は活殺自在と言われます。武道とはどちらかが相手を居着かせることを競っている。武道的観点から言うと、問題に正解しなければならないという発想をする人は構造的に敗者であるということになります。

pp79 でもイデオローグが、同じ名を掲げた政治党派の犯した失敗について責任を取ることを拒否するとき、その名を掲げた政治思想は死滅する。
(中略)それでも「マルクス主義運動の名においてなされた非行は、同じマルクス主義者を名乗る私の責任でもある」と言うべきだった。誰もマルクス主義運動を弔うときに「喪主」となることを受け容れなかった。だから日本におけるマルクス主義運動は死んだ。僕はそう思っています。

pp106 就活を始めるにあたって最初に叩き込まれるのが「適職イデオロギー」。就職情報産業の営業マンが大学2年生を行動に集めて「空気を入れる」ときにこう言います。「諸君ひとりひとりにはこの広い世界のどこかに、ただひとつだけ適正に合致した「天職」がある。これから1年余りのうちに諸君は自分の適性に合致したこの職業に出会わなくてはならない」。
学生たちはびっくりしますけど、だいたい子が素直なのでこの適職イデオロギーに染め上げられる。
そして自分が適職に出会えないのは「自分の適性が何であるかにまだ気づいていないからだ」ということと「世の中にどのような職業があるのか十分に知らないからだ」という2種類の情報不足によって説明されるということにうっかり頷いてしまう。

pp115 小津安二郎の映画に出てくるおじさんおばさんが駆使するロジックは「婚活」ビジネスが使用する「あなた自身の唯一無二性」「主体性」「自己実現」に軸足を置いたロジックとは全く別のものです。まるで逆です。
「あなただってそれほど卓越したところのない普通の人間なんだからあれこれ言わずにこのあたりで我慢しなさい」と「標準性」「汎用性」を強調する。そうやって若者たちを「普通の市民」の枠の中に押し込んでいく。「あなたは普通の人である」がゆえ「普通の人と結婚すれば良い」、そうすれば「普通の幸福が得られるであろう」というあまりに夢のないワーディングで結婚に追い込む。そして決断を嫌がる若者に最後に叩きこむのは「結婚なんか、誰としたって、まあ、同じようなものだよ」という叡智の言葉です。

pp116 結婚というのは配偶者の双方が卓越した人間的脂質をもってそれを絶えず100%発揮しなければうまく機能しないようなストレスフルな制度ではありません。そんな過酷な条件を課していたら人類は遠い昔に絶滅していたでしょう。激しく愛しあい、心から尊敬しあう人間同士でしか幸福になれないのだとしたら、それは制度設計そのものが間違っている。親族のような種の保存のために必須のシステムがそんな達成困難な制度であるはずがない。

pp120 結婚が必要とするのは「他社と共生するちから」。よく理解もできないし、共感もできない他人と、にもかかわらず生活を共にし、支え合い、慰め合うことができる、その能力は人間が共同体を営んでゆくときの基礎的な能力に通じている。
社会人としての成熟の指標のひとつは他人と共同できる能力。この能力を開発する上で結婚というのはきわめてすぐれた制度だと僕は思います。
配偶者が示す自分には理解出来ないさまざまな言動の背後に「主観的に合理的で首尾一貫した秩序」を予測し、それを推論するためには、想像力を駆使し、自分とは違う回路をトレースする能力を結婚は要求する。配偶者のうちなるロジックを、おのれの全知全能を尽くして見出そうとする努力が結婚生活において最優先の仕事となる。
この仕事が開発する能力は単に結婚生活を支援するにとどまらず、極めて汎用性の高いものである。一見するとランダムに生起する事象の背後に反復する定常的なパターンの発見こそ、知性のもっとも始原的な形式だからです。ランダムに見える事象の背後に一定のパターンを見出そうとする知的努力によって人はまっすぐに科学と宗教に向かう。

pp131 何を言われても傷つくか何を言われても反応しないか、その二極の間を揺れ動いている。ペルソナの使い分けができなくなったということ。二極を揺れ動くというのは、社会的ペルソナが2種類しかないということ。

pp134 大人になるというのは「だんだん人間が複雑になる」ということ。表情も複雑になるし感情も複雑になる。人格の層の厚みが増す。少年のような無垢さ、青年のような客気、老人のような涼しい諦念。同一人物中にさまざまな人格が踵を接して混在しているというのが「大人」の実情。

pp148 帰農志向はかつてのヒッピームーブメントやニューエイジの自然回帰とはちがう。金融の経済からものづくりの経済へ、交換の経済から贈与の経済へと、資本主義システムそのもののグローバルな地殻変動的変化を映し出しているように思えます。

pp150 経済活動は有用な商品を手に入れることが目的ではない。商品なんか何でもいい。何でもいいからぐるぐるものが回れるように社会的インフラを整備することが経済活動の第一目的だろう。
ものをぐるぐる回すために有用な人間的資質は、ビジネスの現場に身をおいたことのある人ならすぐにわかるはず。例えば相手の話をちゃんときく、自分の言い分を情理を尽くして説く、納得のゆくおとしどころを提案できる、約束を守る。そういったことは経済活動の円滑な進行のためには不可欠のことなわけです。
ぼくたちはうっかりと「ビジネスで成功するためには市民的成熟が必要である」というふうに考えている。でもこれほんとうは話が逆なんじゃないか。「市民的成熟を促すために『ビジネスで成功することはたいせつだ』というフィクションをみんなで信じているふりをしている」というのがほんとうなんじゃないか。
人間的活動の目的は、人間の成熟を促し、人間の共同的な関係をしっかり基礎付けることであって、そのための技術的な「迂回」として「じゃあさ、ひとつ『ものをぐるぐる回す』というゲームをみんなでやらないか」という話になった、それがことの本来の順序ではないか

pp153 「金で金を買う」経済活動、金融経済というのは、人類学的に言えば「その後の厳密な(本来的な)意味において経済活動ではない」ということになる。

pp167 商品には使用価値と交換価値がある。商品価値というのは本来な有用性のこと(たわしの使用価値は鍋が磨けること)。交換価値というのはものの有用性と無関係に市場における需給関係で決まる価値(ボートの使用価値は水に浮くことだが、タイタニック号沈没5分前の交換価値は跳ね上がる)。この2つの古典的価値形態に対し、1980年代に象徴価値が参入してきた。その商品を持つ人が「社会的に何者であるか」「いかなる社会階層に帰属するか」を表示する、商品の持つ記号性に特化した価値のこと(あるブランド品は所属階層や年収や地位や趣味の良さを示す)。もっぱら記号として解釈されるものを経済活動の中心に据えたことで後期資本主義経済は爆発的な活況を呈した。象徴価値市場は底なしの渇望に焦点化することにより「ビッグバン」を達成した。
いま一番売れ筋の商品は「ギルティ・フリー商品」。これは象徴価値商品のもっとも洗練された形態。自分が自分から見てどんな人間であるかという自己評価が問題になっている。自分が「環境フレンドリーな人間」であることは、わが身を顧みて有責感があるかないか。疚しさには実体的な根拠が無いので、どのような商品をもってしてもこの疚しさは満たしようがない。

pp174 1億円ぽんともらって「おおこれはありがたいわ」としかるべき「贈る相手」にすぐにさくっと贈ることができるひとがいたとしたら、すでに送り先のリストを作成していたということ。未熟な人間でもお金を蕩尽することはできるが、成熟した市民でないと適切な贈与はできない。

pp188 人間が持つ能力は、能力それ自体によってではなく、ましてやその能力が所有者にもたらした利益によってではなく、その天賦の贈り物に対してどのような返礼をなしたかによって査定される。万人はそれぞれ固有の仕方で「ノブリス」である。だからオブリゲーションがある。この天賦の才能に対してどのような返礼をなすべきか。人々が僕のこの能力からどのような利益を得ることができるのか。

pp195 インフェルトはガロアを供養したいと思った。死者に向かって「あなたのおかげで数学史は何歩か前に進んだ。そのことを僕たちはあなたに深く感謝している」と告げたいと思った。そして同意を読者にも求めた。そういうマインドセットをもって書かれたものは「リーダブルな書きもの」になる。供養の言葉においてぼくたちは2種類の受信者に向けて同時に語りかけている。

pp197 どうしたって言葉が届くはずのない人、とりあえず言葉を聴く気のない人、に向かってなお語り止めないこと。そのような無謀な営みを駆動しているのは「僕にはどうしても言いたいことがある」という強い思いです。
言葉が届くというのはどういうことか。わかりやすく書くことでも、論理的に書くということでも、修辞を凝らすということでも、韻律が美しいということでもない。いちばんたいせつなのは「私には言いたいことがある」という強い思いであり、その思いが最大化するのは「言葉が届くはずのないほどに遠い人」になお言葉を届かせるべく、身をよじるようにして語るという振る舞いにおいてではないでしょうか。

pp198 リーダブルな書き手の特徴は、言葉が切迫してくるという点にある。太宰の文体は文字通り、読者に向かって駈込み訴えをする。こちらが受け止めないと、書き手がそのまま空を掴んで、どうっと倒れてしまう。そんな切迫感がある。読者はその言葉を受け止めるべき当事者として、書き手によって当てにされている。これこそがリーダビリティの本質。発信者によってあてにされていること、あなたが聴いてくれないと話がはじまらない。そういう発信者の切迫が伝わるときメッセージは過たず受信者によって受理される。
中学生高校生が太宰を熱愛する理由はそれだと思う。この人は私を知的に対等なものだとみなして書いている。そんな大人とはじめて会った。だから子どもたちは太宰治に夢中になる。

pp202 深い敬意を含むメッセージに対しては驚くほど敏感に反応する。コンテンツが理解不能であろうとも、ぼくたちは「自分に向けられた敬意」を決して見落とさない。自分に向けられた愛情を見落とすことはあっても、自分に対する敬意を見落とすことはない。

pp204 成人とは被創造物としての自覚を持つ存在のこと。神が人間を創造したのだとすれば人間は神の威徳と全能にふさわしい存在でなければならない。神の威徳と全能にふさわしい存在とはどのようなものか。レヴィナスはきっぱりと書く。「神の支援抜きで、地上に公正で平和な社会を構築しうるもの」、それが神が創造するだけの甲斐のある人間、神でなければ創造できない人間。
レヴィナスは神の沈黙を「神のその被造物に対する絶対的な信頼」と読み替えた。
人はどれほどわかりにくメッセージであっても、そこに自分に対する敬意が含まれているならば、最大限の注意をそこに向け、聴き取り、理解しようと努める。

pp209 リーダビリティとはこのような直感的理解を受信者にもたらすこと。どれほど難解でも、「これはあなた宛のパーソナルなメッセージだ」というメタメッセージがはっきりと一義的に開示されているならば、受信者の理解枠組みそのものの「解体=構築」を誘発せずにいられない。
どれほど烈しく批判されても、その批判が整合性を持つように自分自身を作り替えようとは思わない。だからもしほんとうにその人の知的な枠組みを根底から作り替えようと望むなら、その人の知性を信頼するしかない。その人が進んで自己超克を試みる可能性を当てにするしかない。
リーダビリティとはそのような自己超克の可能性に賭け金を置くことだと僕は思う。

pp224 地鎮祭とは、人間の緊張感を亢進させるための心的装置なのである

pp264 大阪を宗教観光都市として再生すべきと考えている。

pp228 六本木ヒルズは霊的には極めて脆弱だが、霊的な守りが弱いのでいろいろと事故が起こる可能性があるということを指摘したものはいなかったのだろうか。いなかったのだろう。
60年も生きてくるとわかってくることのひとつは、人間が暮らす空間には霊的な備えが必須だということ。
霊的な備えをしておかないと、鬼神のたぐいが人間を襲うような話をしているわけではない。人間を襲うのは人間だけである。人間が住む場所については、人間の愚鈍さや邪悪さができるだけ物質化しないような仕掛けを凝らすことは必須の仕事である。

pp229 人間は喪の儀礼をなす。それが人間の定義である。人間は存在しないものに対しても定められた礼法に従いコミュニケーションを試みなければならない(返事はないが)。にもかかわらず「存在しないもの」をあたかも「そんざいするもの」たちのうちに交じってさまざまな働きをなすものであるかのように遇するという義務からは逃れることが許されない。だから人間が一定数以上住む場所に霊的なセンターを置き、存在しないものに対する配慮を覚醒させ続けることは、人類学的には抗命を許されない命令なのである。「存在しないものをして『存在しないもの』としてそこにあらしめよ」というのは逃れることのできない人類学的命令なのである。

pp265 存在するはずだったのにしなかった現実、と均衡するのは、存在しないはずだったのに存在してしまった幻想、だけだからである。

pp274 木で鼻を括ったような説明が私たちを不快にさせるのはそこで述べられていることが間違っているからではない。そこに聴き手の知性や判断力に対する信頼と経緯の痕跡を見て取ることができないからである。おまえが私の意見に同意しようとしまいと、私の意見の真理性は揺るがない、と耳元で怒鳴りつけられ続けていると、私たちは深い徒労感にとらわれる。