虎(牛)龍未酉2.1

記録帳|+n年後のジブンが思い出せますように……

冨貴是吉祥 於 火曜稽古

背景

火曜日のtea classはYKNさんのお祝い茶事だった。茶事でのお祝いをはじめて体験したわけだけれども、ほんとうに素晴らしかった。華美ではなく心づくし。ほんとうにみんなYKNちゃんのことが大好きなんだな、という時間だった。このタイミングで、聖徳庵ピープルの重要なメンバーによる、重要なメンバーのための茶事に同席できた幸運に、言葉では言えない感謝の念につつまれました。
 
今日の軸は「冨貴是吉祥」。坐忘斎宗匠の初釜式の扇子を軸にしたもの。で、これが何を意味するのかの激論になった次第。ジャックは「こんなことをみんなでワイワイ考える集まりってほかにあるかい? おっちゃんおばちゃんが集まっての話題って、子どもの学校のこととか、晩ご飯の心配とか、そんなことだろ? 今日は何時間も軸の意味についてそれぞれが考えて、それぞれがアイディアを持ち帰ったんだ。すごいよね!」(意訳)と酔っ払いながら言っていた。ま、ワタシは他愛のない雑談にも大事な意味があると思っているので、ジャックに全面賛成ではないけれども、総論賛成です。
 
まあその時にはいろいろな会話と解釈が出たのだけれども。今日、他のことを調べていて、どうしても冨貴是吉祥について気になったので調べてみたので記録しておきます。
 

共通事項

冨貴是吉祥の冨貴は、富貴ではなくて、冨貴、だそうです。それから、鵬雲斎大宗匠も冨貴是吉祥を好んで軸にしたようで、茶道資料館の「鵬雲斎玄室の茶」の主な展示の筆頭も「一行 冨貴是吉祥」(いま展示会やってるじゃないですか!)、その他の茶事でもたびたび使われているようであります。にもかかわらず、ネットで調べる限りにおいて、冨貴是吉祥についての意味が解説されているページは皆無! 禅語百科みたいなのの解説もいまいち納得できないし、お寺さんが解説しているのも見つからないし。まあ、茶の湯世代とネット世代がかぶらないということはあるかもしれないけど、それにしたって、禅語について何も出てこないというのは(わたしの経験では)すごく珍しい。というわけで、独自解釈の世界に入ろうかと思った次第。
 

アイディア1、ストレートな解釈

冨貴=吉祥ということなので、冨貴はなにか、吉祥はなにかということになるわけで。
まず吉祥から。吉祥は辞書で調べると「よい兆し。吉兆と同じ」的なことが書かれてます。他の解釈はないの?とおもって漢字を調べてみても他に解釈のしようがあまりない。「吉」は刀(まさかり)+口(神器)で、悪を断ち善を呼び寄せるが原義。「祥」は示(神に祈りを捧げる祭壇)+羊(神への生贄)で、善きことへの期待が原義。どう転んでも、吉祥は、未だ起こっていないが良いことが起こる兆し、という意味から他に解釈の幅が少なそう。
つぎは冨貴。冨貴が古くあらわれるのは書経の洪範。「洪範九疇(こうはんきゅうちゅう)とは、中国古代の伝説上、夏の禹が天帝から授けられたという天地の大法」(by wikipedia)だそうで、そこで「九疇は五行・五事・八政・五紀・皇極・三徳・稽疑・庶徴・五福六極」といわれており、その五福とは「長寿」「富貴」「康寧」「好徳」「善終」なのだとか。
とすれば、『もしも富貴を得たとすれば、それは五福に至る一歩目であって、たしかに吉兆であることは間違いないが、他の福も得ようね』というのが冨貴是吉祥の意味ではないのか、というのがアイディア1。
しかしこれには欠点があって、書経は「一曰壽、二曰富、三曰康寧、四曰攸好紱、五曰考終命」と書いてあって、富貴とは書いてない、「富」としか書いてないんだよね。五福に「富貴」を入れるのは、どうやら「五福臨門」と言われるものらしくて、中国ではよく使われるようなんだけれども、そのルーツは不明。
 

アイディア2、吉祥天女

直観が、吉祥天女だって言ってるので調べたくなって探していたら、今昔物語集を見つけました。
今昔物語集の17巻 47話に、「生江世経、吉祥天女ニ仕マツリテ富貴ヲ得ル語」(生江(地名?名字?)の世経(名前)さんが、吉祥天女にひたすらに仕えて富貴を得た話)というのがありまして。上記リンクで原文読んでもらうのがいいと思いますが、ざっくりあらすじをまとめると「世経さんが貧しくて困ってお腹も減ってたし、しょうがないので吉祥天女に祈ったら、ご飯はもらえるわ米はもらえるわの大躍進。それを聞いた守さんは、世経の真似をしてちょっと良いことあったけど、すぐに終わっちゃったので諦めた。世経さんはまあなんとかなるわなあと思って吉祥天女を信じてたら、それからも良いことばかりで結局大富豪になりましたとさ」みたいな話。最後に「誠の心をもって仏天につかえるものはこんなふうに(良いことに)なっちゃうんだよ、という話として語り伝えられてるんですわ」と今昔物語集には書いてあります。
『富や名声というものは、誠の心をもって、なにかに尽くしておれば、なにものかの計らいによって得られるものであるよ。目の前にあるものに誠心誠意尽くせば、心配することはない。それは仕事かもしれないし、それは家族かもしれないし、それは茶の湯かもしれない。あなたにとっての吉祥天女がなにかはわからないけれども、信じて委ねなさい』というのが冨貴是吉祥の意味なのではないか、と思いました。そんなことを考えると、鵬雲斎大宗匠が「冨貴是吉祥」を好んで書かれたというのも、私としては得心がいく話で。きっと鵬雲斎大宗匠は、みずからの計らいを捨てて、「一椀からピースフルネスを」という『吉祥天女』に誠心誠意尽くせば、おおきななにものかの計らいによって、みずからの計らい以上のことが起きると確信していたのではないかと思うのです。大宗匠ことですから、それぞれの人が、茶の湯に限らず、それぞれの『吉祥天女』に誠心誠意尽くすことを勧められていたのだと思います。自称孫弟子として、大宗匠のこころをそのように理解したい。お会いしたことはないけれども、きっとご本人にお会いして直接尋ねる機会があったとしても、「あなたはどう考えますか?」「あなたの考えを大切にしなさい」と言われるような気がします。
 

謝辞

あーおもしろかった。冨貴是吉祥の掛け軸がなければ、一生、今昔物語集の原文を眉をしかめて読むことなんてなかったと思うし、鵬雲斎大宗匠のお考えを(存じあげないなりに)想像してみることもなかったと思います。自分自身にとっても、今やってることを、確信を持って継続してやれや、という声を聞いたような気がします。
なによりYKNさんが、ご自身の『吉祥天女』に尽くされますことを心から祈念しております、っていうかそのように生きられることを確信してます。