虎(牛)龍未酉2.1

記録帳|+n年後のジブンが思い出せますように……

007:一期一会

昨日提案書に「一期一会」って書いた。打ち合わせ中にその言葉がやってきたので、打ち合わせ後のまとめ提案書に書いて、それが何を意味するのか自分でもきちんとわかっていなかったので記す。
そもそも一期一会とは、茶会の心得として広く知られていると同時に、「道」の世界ではあちこちで流用されている言葉。たとえば剣道の世界で、ハチマキに書かれるキーワードで人気トップに必ず入ると言う。空手道の世界だと、Tシャツに書かれるのは掌禅一如が多いかな。それはさておき。一期一会の意味がどういうことかはここでは解説しないのでGoogle先生に聞いたりして頂きたい。
ワタシの場合だと、一期一会という言葉との出会いは、どうも美人国語教師のミヤザキ先生であったような気がするんだよな。センセイの楚々とした立ち姿と、一期一会を想像した時の清涼感とがセットで記憶されているような気がする。もはや事実は霧の中。年賀状は円相にしようかといきなり思い立った。それはどうでもいいですね。
一期一会という言葉は、なんというか日本人のココロというか、拠り所というか、少なくとも聞いたことがないという人はいないと思うし、福山ニューキャッスルホテルの地下の四川料理店の担々麺を食べるときも壁を見ればでかい書がかかってるし、たいへんに馴染みのある言葉だと思うのですけれども、その由来がなにかというのは意外と知られていないのも事実で。Wikipediaなんかによると、山上宗二記に「一期に一度の会あり」という記述があったということだけれども、いろいろ調べていると、江戸末期の大老井伊直弼が自分の茶道の一番の心得として、著書『茶湯一会集』巻頭に「一期一会」という言葉にして世の中に広めたものである、ということであって、案外と歴史は新しいのであった。
しかも、千利休はほとんど自分の言葉を記録に残しておらず、一座建立に近いことが記録に残されているが、これとて利休の言葉ではなく世阿弥の風姿花伝によるものである。ともかく利休の心得として一番近く、また大茶人の一人である井伊直弼が座右の銘にしていた言葉が「一期一会」であり、これが人口に膾炙している、というのは大げさか、ニッポン人で聞いたことももないひとはおそらくいないであろう、ということは大変に着目すべきことであろうと思うのだ。
そーゆーことをツラツラ考えると、桜田門外の変(1860)で斬って捨てたものこそが一期一会という考えかたであり、井伊直弼が死に一期一会という考えかたを残すために一期一会という言葉が流行したようにも思えるのである。
わたしは歴史のことがよく分からないし、だから勝手解釈が多いのだろうけれど、井伊直弼が死んだからこそ結果的に開国に至り、近代化が促進した理解している。もしそうならば、一期一会という言葉が保存されているのは、近代化の促進とセットであろうはずなのだ。そしてそうならば、近代化の促進というのは、カジノ資本主義と通底していることであるはずなのだ。おそらくこの付近に論理展開の曖昧さがあり、結論ありきの部分が大いにあろうかと思うのだけれども、まあそれもよしとするのだ。理屈なんて結論をサポートする方便に過ぎないのだから。
話を戻すと、切っても捨ててもなお残ってしまう「一期一会」という言葉、概念。少なくとも風姿花伝まではさかのぼるアイディア。現在においてもそれは一定の思考あるいは態度を促し、また、本当に一期一会を追求すれば、悟り、あるいは智慧にたどり着きうる言葉。それを広めた人物を、われわれは150年前に斬って捨てたという事実をもち、言葉を各所で保持し続けたという事実を一方では持つ。まあそろそろ言葉自身とその意味を復権させてもバチは当たらねえんじゃないのかな、とかいうことを思ったりして、一期一会というコンセプトをいろいろなところで「使って」いきてえなあと思うのであります。