【14B018】レヴィナスと愛の現象学(内田樹)

 

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

 

 

師とは私たちが成長の過程で最初に出会う「他者」のことである。師弟関係とは何らかの定量可能な学知や技術を伝承する関係ではなく、「私の理解も共感も絶した知的境位がある」という「物語」を受け容れる、という決断のことである。言い換えれば、師事するとは「他者がいる」という事実それ自体を学習する経験なのである。

 

 「教育を受ける」とはほんらい、「私は……ができる」という能力を量的に拡大してゆくことではない。そうではなくて、「私は……ができない」「私は……について知らない」という不能の様態を適切に言語化する仕方を学ぶことなのである。(……)だから、「……ができない」「……を知らない」という言明を通じておのれの不能のあり方について相手になにごとかを伝えるためには適切な語法を習得しておくことが必要である。(……)「俯瞰的な眺望」を語ってみせることである。

 

ラビ・アキバっちが師を「大洋」に比したのは、彼らが師に比して知的に劣っていたという意味ではない。そうではなく、それとは逆に、彼らが壮大なスケールの、ほとんど宇宙的といっていいほどの俯瞰的視座から、おのれ自身の不能について語ることができた、ということを意味しているのである。

 

律法の学者たちは律法修学生に必要な最も重要な知的資源を「不能の認知」能力に見出した(それは、あらゆる知的営為の基幹をなす資質である)。それは「自分自身を含む風景を、自分とは別の人の目から眺める」ための想像力の運用のことであり、それこそが「他者」と交通する能力なのである。

 

だから、師が「理解を超えている」ことは、弟子の「唯一無二性」を基礎づけるために必須の条件なのである。

 

ひとつは師を畏怖し、崇敬し、師のうちには大洋にも比すべき叡智が宿っているという「物語」を受け容れること。いまひとつは、弟子は「同一の教え」について、師とは違う「注解」を語り、同じ聖句について「同じ意味の新しい相」を見出す、ということである。

 

タルムード解釈の基本は「口伝」である。師から弟子への「顔と顔を見合わせた対話」を通じてしか、「歴史的継続性」は保証されない。(……)

タルムードの文章は口伝とたまたま筆記されることになった教えを集成したものである。したがって、対話のうちにあった論争的な本来の生命をタルムードに取り戻してやることが肝要である。そのときはじめて多様な意味が立ち上がり、低い声でつぶやき始めるのである。(……)

タルムードは「書物」としてだけでは成り立たない。「凍結された教え」を「解凍」して、「本来の生命」を賦活させるためには、それを「対話と論争」の状態に戻してやる必要がある。だから、ひとり黙読するものにとって、タルムードは「死んだ書物」のままなのである。(……)

なぜなら、タルムードにおいては、「どれほどの知識」を持っているのかよりも、その知識を「どういう仕方」で伝授されたのかの方がはるかに重要だからである。

 

テクストの解釈は主観的な独創性に無限に開かれている。しかし、そこで解釈を許されるにはたった一つの条件がある。それはテクストの読みを教える「師を持つこと」であって、テクストについての「知識を持つこと」ではない。師という名を持つ一人の「他者」のうちに無限の叡智がひそんでおり、その一挙一投足のすべてが叡智の記号であるという「物語」を受け容れたものの前にはじめてテクストは開かれる。それは「師に仕える」という行為と「テクストを読む」という行為とが、同じ一つの知的な冒険を意味しているからである。だから、「師に仕える」ことのできないものは、「テクストを読むことができない」。「他者」のうちに無限を見出すという「命がけの跳躍」をようく果たし得ないものは、テクストのうちに無限を見出すという「命がけの跳躍」もやはりよく果たすことはできない。

 

身体はある場合には頭脳よりも開放性が高い。頭脳が拒むものを身体が受け容れるということはありうるだろう。知性の容量を超えるものを身体が引き受けるということはありうるだろう。

 

レヴィナスの概念については、私たちが「分からない」せいで誤読する可能性よりも、「分かった気になった」せいで誤読する可能性の方が高い

 

真理の諸相のうちのいくつかは、ある個人が人類に欠けていたら決して啓示されることはないのである 

 

人間の中身が定められるのは、彼を不安にさせるものによってであって、彼を安心させるものによってではない(……)神は動きを意味しているのであって、説明を意味しているわけではない

 

レヴィナス的」と思われるのは「Aは十分にA的だろうか?」という問いの表現である。(……)「正しく使い分けをすること」をレヴィナスを私たちに求めているわけではない。むしろ「同じ名」が一義的に同定し得ないという「サスペンス」を生産的な契機として受け容れることを私たちに求めている

 

その具体性ゆえに、この注解者は他の誰をもってしても代え難いような仕方でユニークなのである 

 

「他者」が、そのつど「私」と同時に新たに生起する

 

レヴィナスの思考のきわだった特徴は(……)「前言撤回」の無窮の運動性のうちにある。(……)思考をたえず「星雲状態」においておきたいという願いはこの哲学者のほとんど宿業である

 

あまりにも記録したい箇所が多すぎて挫折。素晴らしい。

 

 

 

  

  

 

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