動いているものは、じつは構造がよくわからない。構造には、それを知るためには動きを止めないといけないという性質があって
日本では、身体表現をどういうふうに文化の中に入れていたか。身体を表現する努力を古くは「修行」といい、その具体的な方法を「道」といい、それが表現として完成したものを「型」といいました。
「男は黙ってサッポロビール」...それを支えていたのは同時に身体の表現であった
二本差しでちょんまげを結って咸臨丸から降りた人たちがサンフランシスコを歩いたときに、アメリカ人は誰も笑わなかったと思います。それが型です。
西郷さんは鹿児島弁で、勝海舟は江戸弁。二人だけで話して通じるわけがない...あれだけの重要な問題を顔を見ればそれですむというのは、すなわち型、身体の表現がそこにあったのです。
これからわれわれが考えなければならないことは、そういった意味での表現としての身体、あるいは自然としての身体というものをいかに回復するかという問題でしょう。
身についたものだけが財産