虎(牛)龍未酉2.1

記録帳|+n年後のジブンが思い出せますように……

022:ゼン・プリースト・コード

龍安寺の石庭の「謎掛け」について、ひとつの見方を得たような気がして大変に嬉しい。


龍安寺に入ると、石庭の模型があって、これは「虎の子渡し」であるという説明が書いてあるんですね。漢文が書いてあって、読み下し文が並べてある。曰く
「虎が三匹の子を生むと、一匹が彪(ひよう)で他の子を食おうとするので、川を渡るときに親はまず彪を対岸に渡し、次いで他の一匹を渡してから彪を連れ帰り、次に残る一匹を渡し、最後に彪を渡す」
はい、はい、はい。はい? どういうことですか? 数学クイズみたいでおもしろいんですけど、それは石庭とどう関係があるのですか? あるいはそのエピソードが禅寺で使われているというのは何を意味しているんですか?
頭の中にクエスチョンマークをたくさん浮かべながら方丈に行くとまた昔の文献『都林泉名勝図会』のコピーが置いてあって「所謂方丈の庭は相阿弥の作にして洛北第一とす。庭中に一株も無く、海面の体相にして中に奇巌十種ありて島嶼になぞらえ、真の風流にして他に比類なし、是を世に虎の子渡しと云う。抑々此の地は文明年中細川右京大夫勝元の別荘也、此の人書院に坐して遥かに八幡神廟を毎時拝せん為に、庭中には樹木を植させずとなん」とある。
はい、はいはいはい。はい? むかしから虎の子渡しと言われていたことは理解しましたけど。これのどこが虎の子渡しなんですか?
謎は深まるばかりなんである。
 
ちなみにネットで調べてみても「虎の子渡しの庭と言われている」という記述はたくさん見つかるんだけど、どこがどのように虎の子渡しなのか、説明がほとんどないのである。天下のWikipediaは「龍安寺の石庭はこの様子を表したものだという訳である」と断言してあるけど、どこが「この様子を表してるのか」とゆーことが知りたいのである。
他のサイトで説明があったとしても「第3群(中央の島)が親虎と仔虎である」といった説明で、「故事のなかで親虎が仔虎を2匹連れて渡ることはないよ!」って突っ込まざるを得ないというか。あるいはサイトによっては「虎の子渡しの故事と石庭は関係ないように思うのですが」とか書いてあったりするぐらい。そりゃそうですよね。わかんないですよね。
 
石庭を眺めてわからんなーとか思いながら、右に行ってみたり左に行ってみたりウロウロウロウロしながら眺めていて、ひらめきました。けっこう良いっすよ、この「マイアイディア」あってるかどうか知りませんけど、面白いっすよ。
 

 
虎の足あとっす。
石庭を川と見立てて、親虎が仔虎の首をくわえて、左(東)から右(西)に渡る光景を想像してください。川の中でも浅くなっているところを使って、ジャンプするように虎は川を渡ることでしょう。虎がジャンプして着地したその足あとに、石を置いてるんですきっと。3往復半しますから、なんども着地したところや、ぐっと力を溜めて大きな跳躍をしたところには大きな石が置かれてるんです。物理的に言うと、圧力×時間の積分値の分布ですね。ビジュアル表現としては「カンフー・パンダ」でウーグウェイ老師(亀老師)が、タイランのツボを押して封じたときの「ツボ押し」表現のイメージっす。
そう思って石庭を眺めると楽しいの。親虎がぐっと力をためて、大きくジャンプし、とん、とん(いったん方向を変えて)、とん、とん(西岸到着)。帰り道に、とん、とん、とん(方向を変えて、すこし力をためて)、とんとん(高くジャンプ)、ざくーんと着地、そして東岸到着。親虎の大きさと運動量が目の前に再現されるような気がしてきます。妄想ですけどね。
作庭した禅僧が表現したかったのは「全てはいまここにある」ということでしょうから、3往復半した動きを、動かない「庭」に表現したというのは、かれらの発想としてアリだろうなと。禅僧が弟子にいろいろ問うているシーンを想像するとニヤニヤしてしまいますよね。「なあ、なんで3往復半もしている、動いている虎を、ひとつの庭で表現したんだと思う?その心はなんじゃいな?」「虎の子どものなかの『彪』は、何を意味しとるんじゃろうなあ?」「鏡容池にも水があるわな。ここ(石庭)にも水があるわな。その違いはなんじゃろうな?」とか。
で、弟子が何を答えても師匠はニヤニヤしてるの。
しかも、弟子が正解して「すごいっすね師匠!どうしてそんなことを思いつかれたんですか!?」ってコーフンすると「えへへ、それ全部後付けの説明だプー」とか言うの。困った師匠だな。

いやはや、妄想が止まりません。石庭、おもろい。
 
 
【リンク】
龍安寺 - Wikipedia
龍安寺石庭
 
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