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017: ニンテンドー×祝福

そのむかし1994年ごろ、ゲーム機の世界では「次世代機競争」というのがあった。セガサターンとプレイステーションとニンテンドー64も入るのかな?
ざっくりまとめると、技術的に「本格的に3D表現ができるようになった」ことを契機として、ゲームが「映画や他の娯楽とタメを張るようになった」のであった。ゲームに対する「ピコピコ」の印象が外れたインパクトは大きく、相次ぐハードの発売と画期的なソフトの展開で、ゲームは「メディア」のひとつとして認識されるようになったのであった。マルチメディアとかいう言葉もあったな。
ゲームがメディア化し、その市場が一定規模になった結果として何が起こったかというと「中古市場」の創発であった。たしかにたとえば7,000円で買ったゲームをさっさと遊んで1週間で終わらせ、5,000円で売り抜ければ実質2,000円で遊べるわけで、だいたい映画1本分ぐらいの計算になる。映画が2時間であるのに対して、ゲームはさくっと遊んでも30時間から50時間は遊べるわけで大変に合理的な選択となるのであった。しかもふたりでやっても値段は同じだしね。
世の中に「映画のような」ゲームが溢れかえり、当時の素晴らしい才能はゲームにこぞって集まっていった。いい光景だったと思う。
しかし中古市場は、才能あふれるクリエイター(という言葉もなんだか古臭いな)の儲けをガサガサと崩壊させていったのであった。ソニーが中心となって中古販売を訴え、数々の訴訟の報道が世間を賑わせていった。ナムコやコナミやなんだかんだ、もう忘れちゃったけどたくさんの会社がチームを組み、アンチ中古販売のキャンペーンを行い、結局たしか訴訟でも勝ったのだと思う。違ったのかな。おぼえてないや。理屈は確かに「中古販売は悪」であったしそこにロジカルな反論の余地はないように思えたが(本当はいろいろあるんだけど)、ゲームが映画のようなものであれば、2,000円で遊ぶというのはまったくもって合理的な意思決定であったのだ。
訴訟の結果をなぜ覚えてないか。任天堂がまったく違う手法を取ったことのほうがおもしろかったからだ。任天堂はこう考えた。「中古ソフトが販売され流通するのはしかたがない。それは遊び手の合理的判断だ。じゃあ、遊び手が『売りたくなくなる』ゲームを作ればいいんだよな」。中古に出したくなくなる作りかたとして任天堂は数々の手法を編み出した。あるいはポケモン図鑑のような「自分だけのコレクションをつくれる」というアプローチ。あるいは脳トレのような「毎日ちょっとずつ長く遊べる」アプローチ。どうぶつの森のような「ちょっとずつ遊べて、友だちと一緒に遊べる」アプローチ。エトセトラエトセトラ。業績不振期の任天堂を食いつながせてくれたのはポケモンであり、DSの驚異的なヒットの起爆剤は脳トレであり、世界中で圧倒的な本数を売ったのはどうぶつの森である。
歴史から学べることは逆境に対して「それもありだよね」って捉えられるようになることだと思う。中古ソフト?けしからん。著作権だ。クリエイターの才能の評価だ。ではなくて。中古ソフト?それもありだよね。そういうこともあるよね。じゃあどうしたらいいのかな、って。内田樹さんなら呪いと祝福というのかもしれない。たしかにソニーは自らにかけた呪いによって没落した。自分たちに祝福をかけること。それはきっと「現状を直視して、『けしからん』ではなくて、『それもそうだよね』って思って、どうすればいいか考えること」。
あらゆる業界に、かつてのソニーのような状況が多発している。困難な状況に祝福あれ。わたし(たち)の仕事は祝福の「型」をご一緒に創り上げていくことなんだなあ、っておもう。
 

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