014:ウメサオタダオ=Twitter+α

なんだかふと記憶が戻れば一週間が経っていてしかもほんとうは寝たほうが良い夜中だってどういうこと。読むべき本雑誌、読みたい本雑誌は積み上がるばかり。書きたいことは次々と浮かび上がるばかり。でも気づいたら前に書いてるのは一週間前って。ターイム・スリーップ!
つーのはともかくとしてウメサオタダオさんなのである。ウメサダタダオだとずっと思っていて、うちのグーグル日本語入力が賢すぎてすでにウメサダタダオで変換できることが哀しいのだけれどもウメサオタダオさんなのである。春のロハスにいって、司馬遼太郎を読みながらビールを飲んで、酔った勢いもあって子どもたちを捨ておいて国立民族学博物館の「ウメサオタダオ展」を観にいったのであった。捨ておいてとはいうものの、ちゃんと了解はとったのである。行きたけりゃ一緒に行くよと子どもたちに声掛けはしたけど、全員がいかないと言ったのである。それでふらふらとひとりで行くはめになったのである。なんだかしつこいな。
それでウメサオタダオ展なんだけど、記念講演的な話をしている先生を全く無視して、ウメサオタダオさんの机に座り(だれも座る雰囲気じゃなかったのですごく恥ずかしかった)、そしてウメサオタダオ先生の書いたというノート(のレプリカ)を読んで、大量の京大式カードをぺらぺらめくってウメサオタダオ先生の手書きの文字(のレプリカ)を堪能した。そしてわたしなりにウメサオタダオ先生を追体験して考えたのは、ウメサオタダオ先生が現代に生きていたらどういうふうに考えて、どういう道具を使うだろうなあということであった。
いちおう大学での大先輩であるので、妄想としては同じ時代に生きていれば同じ問題意識と同じ道具を発明するのだろうなあとか思いながら机に座り京大式カードを眺めていたのだ。そしてひょうたんを写真で撮ったりしながらつくづく思ったのは、2011年にウメサオタダオさんが生きていたらぜんぜん違う道具立てを使っただろうなということだ。しかもきっと、ウメサオタダオ先生が今の時代を生きていたら、コンピュータや、スマートフォンや、ウェブをうまく使っただろう。さらに妄想をふくらませると、もし2011年(ないしは2012年)に生きていたら、FacebookTwitterやはてなのサービスを組み合わせてうまく使ったんじゃないだろうかなあと思う。
わたしが思うに、ウメサオタダオさんの最大の武器は、ありのままをありのままに観るということだと思うのだ。一瞬一瞬を一瞬一瞬のなかに生き、一瞬一瞬で目にするものを虚心坦懐に観るために、あらゆるものを記録したのだと思うのだ。あらゆるものを紙に書き、記録し、忘れ去ることによってこそ、次の一瞬に目の前にあらわれるものを、新しいものとして目にし、観察し、捉え、虚心坦懐に観ることが、できる。そのためにコザネを発明し、京大式カードを発明し、カナタイプライターを発明し、云々カンヌン、をやってきたのだと想像するのだ。
わたしがFacebookTwitterやはてなのサービスを使っていて勝手ながら感じているのは、ウェブサービスやクラウドサービスがいいのは、過去をさっさと捨て去り、今この一瞬に生きることを支援してくれること、だということ。たとえばTwitterは、この一瞬を記録するための行動上の障壁を最低限にしてくれているので、「いま」思っていることを記録し、次の一瞬に備える構えをつくれる。たとえばFacebookは写真アルバムをつくるのがすごく簡単だから、映像記録を都度都度作成し、過去をいったんリセットして次の時間に向き合うことができる。はてなのサービスは、まあそのあたりは曖昧な感じなのでこちらの勝手な使いようかなあと思うんだけど、わたしの場合だと読書記録をいままでエクセルで書いていたんだけど、はてなダイアリーで記録すれば、エクセルファイルのバックアップは考えなくていいし、あらゆる場所での検索可能性を心配しなくていいし(ただしネットに繋がっている限り)、今週読んだ本今週観た映画を記録し、脳から削除し、またあらたなる一週間に向かって備えをつくることができる。
何で読んだか忘れたけど英語で、東洋の瞑想や坐禅を解説している文章があって、ナルホドなあと思ったのは、「雑念というのは青空に浮かぶ雲みたいなもので、雲をひとつひとつ消していけば、雲の向こうには真っ青な空があることがわかるようになる」という表現で。
シリコンバレーというのは、東洋人にとっては悔しいことに、東洋人より東洋文化のことがわかっている土地柄なので、きっと「クラウド」サービスという言葉を考えた人は、瞑想や坐禅で得られる感覚を知っていて名前をつけたんだと思うんだ。Twitterはきっと瞑想の感覚を知っている人がデザインしていると思うし、Facebookマーク・ザッカーバーグは比較的早い時期に瞑想法をマスターしている。はてなの社長は2011年の末に瞑想をはじめた。だから、過去を総括し、いまここに生きるためのツールになってるのは必然っちゃ必然なのだ。
話が遠回りになったけど、ウメサオタダオ先生が現代に復活し、道具立てを作りなおすとすれば、ウェブサービスをうまく組み合わせて使うだろうと思う。わたしの場合だとFacebookTwitterはてなダイアリーを組み合わせて、過去を記録して総括し、いまに集中できる環境をつくろうとしている。Twitterは完全にコザネのイメージで、だれが読んでいようと読んでいまいと正直関係ない(極論だな)。ただしTwitterはTwilogと組み合わせて記録が担保されているというのが前提。Facebookはニュースフィードやウォールが過去に遡ったり検索したりする機能が不十分(あるいはわたしが把握していない)ので、かえって心配で過去を捨てられないので、気持よく過去を捨てられる写真アルバム機能を使うことに基本的には特化。まーわたしの場合だとそんな感じなのだけれども、ウメサオタダオ先生なら、先生らしい使い方をもっと工夫して考えられたんだろうなあという妄想がどんどん膨らむ。
まあなので、東大の人たちがウメサオタダオ先生に興味をもたれて、京大式カードの研究会をしたりしていることは、ウメサオタダオの自称孫弟子にとっては大変嬉しいことであるのだけれども、自称孫弟子にとっては逆に「センセが生きてたらそうはしないよね?」という意味では大変に哀しいことのように思える。
ゆえにぜひ、「ウメサオタダオ=Twitter+α」という感じでぜひ、現代版ウメサオタダオ思想を復活させてほしいなあみたいなことをつらつら考える日々なのであった。わたしはかってに復活させておきますがね。
 

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