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011:雑学王じゃない

草子

大学ってどうでした、って最近聞かれて、その時の答えはたまたま「バカが多くて嫌になった」だったのですけれども。だから大学であまり友達ができなかったんですね。ってそうなのかな?あるいは大学の時に交友のあった学内の友達はほんとにスキ。
いろいろなことをダイレクトに書くと、いろいろなところで差し障りがありそうだし、こうやって誰が読んでるかわからない、正確にいうとほとんど誰も読んでいないことが分かっているブログでちまちまちまちまと書き綴ることの快楽というのは途方も無いものがあって、誰も読んでいないことにして生活を送ろうとしているのですけれども。とはいえリンクを閉じているわけではなし、可能性を閉じているわけでもなし、この微妙な中途半端さってステキ。ソーシャルメディアってすべからくそういうふうに、自分の為の瞑想ツールとして使えば幸せなのになあとか。ウメサオタダオの京大式カードとかも、方法論を学ばずに彼が何を考えて使ったのか、今ならどういうふうにアレンジして使うのかということを突き詰めて考えれば、ツイッターになりフェイスブックになるはずじゃん、とか思ったりした(ウメサオタダオ展でウメサオタダオの京大式カードのレプリカを自分の手で繰りながらそう思った)ということを書くだけで一項ができあがるので、予告だけして今回は省略。
ほんとに大学の周囲の人間はくだらなくてバカばかりだなあと思って、他大学の学生とばかり付き合っていて、こちらは大変におもしろかった。学内で積極的に交友を深めていた友人は大変におもしろく、今でもいつでも遊びたい。もっと遊べなかったのが心から残念だ。学校に来ないもので学内で交友は深まらなかったけど、英語の授業中にずっと洋楽の話ばかりをしていた友人は、さっさと数学者になって流石だなあと思った。交友がいまいち深まらなかったのは大変に残念であったけれども、わたしも今よりずうううううっと刺があったので仕方ないやね。
大学ってどうでしたって聞かれたときのシチュエーションにもいろいろ背景があってすべてを説明することは大変だし面倒くさいので解説しませんが、要するに、別に世の中で良い大学と言われているところにいくということは、雑学王になるってことじゃないんですよねということをメモしておきたい。いちおう当時は世の中で指折り数えるほどの難関大学に行って良かったと思えることは、記憶力を使わなくてもなんとかなるという手応えを体感できたことと、やっぱり記憶力も必要な気がするという手応えを得たことであった、ような気がする。ちょうど大学を卒業する頃にグーグルが本格的にサービスを提供し始めて、何が嬉しかったかって、機械がおぼえていればよいことは機械が覚えていなさい、人間が考えることは人間が考えなさい、という線引きがはっきりしたなあという実感を持てたということかなと思い出しました。「アタマがいいというのは雑学王になることじゃない」っていうことが明言できる時代がきてすっごく嬉しいな、っていうのをキャンパスの外周の石垣沿いを歩きながら実感したことを思い出す。
まあ今となればもうちょっとおれも記憶力使ってもいいんじゃないという気がすることも告白しなければならないわけですけれども。リアルタイムで人と人がコミュニケーションするにおいて、即答で出てくるのと出てこないのとの迫力は違うわけで、あるいは立場の上下差が相当ある場合に、「待って下さい今調べてますから」ってわけにいかないことも往々にしてあるわけで。
なんだかカドが立たないことを優先して書いていると訳がわからなくなってきましたけれども、頭を使うというのは決して「雑学王」として記憶力を使うことではないということをメモしておきたい。あるいはそうであるならば、頭を使うというのは生活力を身につけることであって、つまり身体能力もあわせて身につけるのであって、結局のところ大して頭を使っているわけではないという形容矛盾に行き当たるのであるということであった。
 

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