読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

009:口伝の意味

 
南方録(岩波文庫)を読んだのだが、これはけっこうハードルが高いす。だいたいにおいて、古文で最初から最後まで読まないといけないのがツラい。脚注も多い。補足も多い。盆と正月が一緒に来たような賑わいぶりで大変にチャレンジングだった。とくに墨引の曲尺割(かねわり)のところは大変に難しく、補足なしでは無理。曲尺割が読みたくて読み始めたのですけれども、ちょっとなんというか、ギブ。かつての世界観と今の世界観が違いすぎて、ギャップを埋めるのが大変。でもここになんかあるよねという感覚だけは持ち帰れた。そんな感じでなんとか読み通し(読み飛ばし、が正確かも)、こんどは「南方録を読む」(熊倉功夫)にチャレンジ中。
「南方録を読む」のハードルの高さは別にあって、まずは、本が重い。今まで持ち歩いた本の中でバツグンに重い。どうしてそんなことになるのか理解し難いのだが重い。わたしのようにスーツケースひとつで全国流浪の旅をやっていると、この重さはボディーブローのように効いてくる。次のハードルは、おもしろいんだこれが。新幹線の車中で、「まあ、読み始めて眠くなったら寝るか」というスタンスで読み始めると、だいたいが2時間ぶっ通しで読んでる、みたいなことになってしまうのである。何がと言われると説明に困るけど、ともかくおもしろい。解釈面では「おっとそこは踏み込まないんだ?」というところがいっぱいあるけど、学術面では踏み込んだほうが良かったり、踏み込まないほうが良かったり、微妙な位置取りというのがあるのでしょう。ややこしい世界ですわね。
前置きばかりが大変に長くなったのですが、「南方録を読む」で「夜会の花は口伝」の箇所を読んでいて、ああ、そういうことかというのが得心できたことがあったので記録します。結論から述べると、「口伝ってコンテンツじゃなくて、方法論なんだ」であります。
と結論を書いてみたけど、論拠を説明する気が失せてきた。だってそうなんだもん。
大きな枠組みをメモして終わることにしよう今日は。
教育って、コンテンツの伝達だという誤解が甚だしいなと近頃思っていて。「学校の先生は、ある教科のカリキュラムをきちんと教えればいいんだ」っていう風潮じゃないですか全体的に。それって本当ですか?ってことですよ。要素分解して伝達するのが教育ですか、って。要素分解して再構成するというアプローチは、フランス料理の根本的な思想にあると思うのですが、それってフランス料理の活力を削いでましたよね、って。要素分解して再構成するというアプローチを一段階超えたところから新しいものって生まれましたよね。っていうのが「レミーのおいしいレストラン」だったと思うのですが、話がだんだんそれていく。
じゃあ、要素分解せずに教育する方法ってなんですか、って振り返ると、項目としては1)構え 2)ホンモノ 3)千の単位の継続、略して「構真千」だっただろうと思うのですよ。たとえば漢文の素読。たとえば茶道のお稽古。たとえばテニスの素振り、野球の素振り、剣道の素振り。たとえば囲碁の棋譜並べ、死活問題解き。
南方録で言ってる口伝って、口伝で伝わるコンテンツはどうでもよくて(半分)およそ大事なのは、口伝で伝えるという構えでありコミュニケーションスタイルなのではないか。競争力の源泉は居酒屋ではなかったのか的なことも含めていろいろつながってきた気がするのだけれども、自分でもつなげて説明できていないことがよくわかってツラい。
 

広告を非表示にする