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005:詰碁と教育

草子

小さい子ども、つまり小学校に入るか入らないかぐらいの子どもに碁をある程度教えて、詰碁を解かせると大変に面白い。
レベル感でいくと9路盤ぐらいでウダウダ遊べて、終局がわかるぐらいで良いと思う。さすがに、盤面が終わってるかどうかも判別できないのではだめかもしれない。大人なら集中して学べば3時間もかからないレベル、だと思う。たぶん。
なにがおもしろいって、いきなり答えがわかってしまうんだよね、子どもは。もちろん易しい詰碁の本の第1問とかをみせて「どこで死ぬ?」って聞くだけなんだけど。「う〜ん、わからんけど、たぶんココかな?」って、それが8割がた当たるの。当たるって言っちゃいけねえな、わかるの。
その当てかたが大変に面白くて、なぜそこが急所なのか、説明はできないんだよね。「なんかそこに打たれたらヤバイ気がする」とか「逆の立場ならそこに打ちたい」とかざっくりした解答しかできない。正解であることを確かめるために、碁盤を引っ張り出してきて並べて、やってみると「ふ〜ん、そうか〜」とか言って納得するみたいなんだけれども。ともかく、正しいことを確かめて正解に至るのではなくて、正解にまずたどり着き、事後的に正解であることを確かめる、という順番になるのだ。
この「第一感で正しそうなものを探し、事後的に検証する」という考え方はわれわれのようにコンサルティング稼業をやっていると当たり前の考えかたで、腕が上がればあがるほど(職位あるいは御題の難易度があがるほど)複雑な局面から、正解(もしくは正解に近いもの)を見つける、嗅覚のようなものがあがっていく。そういえば大学院時代の先輩で、この人にはちょっと勝てねえなあ、と思ったかたは、嗅覚が鋭かったのであった。同じスタート地点から開始してゴールに辿り着く速度だけでいえば必ずしも負けているわけではないし、モノによっては勝てるかなという気がするのだけれども、ざっくりとしか状況を把握できていないときに、ゴールに近いところにいきなり立つという嗅覚が圧倒的に違った。そんなこともいま思い出した。
 
そんなことを思い返してみると、教育ってそういう「正解から入る」訓練ってあまりしてなくないですか。「教」えて「育」てるっていう字が悪いのですかね。educationという言葉も、e=out + ducation=教えるの過去分詞形、だそうで何かを教えて引き出す意味だそうで。
あるいは教育とは、と大上段に振りかぶらなくても、説明できないのって頭悪そうに見えるよね、困ったことに。なんでそこに石打ったら相手が死ぬの?って聞かれても「う〜ん、たぶんそこかな〜」って言ってると「ケッわかってねえなあコノヤロウ」と思われるのがオチで。サラサラと並べて解説してみたら、確かに頭良さそうに見えるんだよね。さらに「詰碁の3つのパターンは」とか「正解を導くための11のセオリー」とかを言い始めると(あくまでたとえばの話です)、なんか中身を聞かなくてもすでに有難いような気がしてくる。でも結局、正解に早く近くたどり着くのは、パッと見てパッとわかることなんだよね。
新人コンサルタントの教育プログラムを考えたり、あるいは管理職、経営陣の腕をあげるための手法をつらつらと考えていて、なんか今までのいわゆる「教育」とはちがうパッケージングの方法を見つけたいなあと思う今日この頃。おそらく、構え/ホンモノ/習慣の3つが結論だと思っているのだけれども、例によって賢そうにサラサラと説明できないので、「ここが急所だ(と思います)」というあたりで今日は終わり。
 

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